はじめまして
高知市に住む禿げ頭の岡林一雄と言います。もう82歳に成っちゃいました!
趣味は57歳から始めたゴルフの他に、畑を借りて健康の元のニンニクを栽培しています。お寺参りも趣味の一つですね!!
ど貧乏の家庭で育ち、兄弟は5人です。4番目が私で何故一雄でしょう?
生まれて間もなく、子供のいない家に貰われていて、そこで一雄を名付けられたのです。ども、やがて子供が出来たので、返されたのです。。
私が5歳の時背負って子守をした妹は、6ケ月の命で終わりました。戦争終わりの頃で、病院に行けなかった?病院で治療費が無かった?病院も疎開して医師が居なかった??
近所の友達たちは幼稚園に行きます。私は一人で電信柱の下の銅線切りくずを拾いに遠くまで行きます。2ケ月毎に来る古鉄回収業さんに、集めた銅線を売ります。僅かなお金ですが嬉しかった!!
小学校の入学式に、知らないおばちゃんが”一雄ちゃん大きくなって・・・”・・
随分後で気が付いたことですが、生まれて間もなく貰われていった時のお母さんだったように思いました。
小学校の2年生の夏前空襲警報が鳴り、焼夷弾が飛行機から撒くビラの様に舞い落ちて、家は焼け炎で夜でも明るかった様に思い出します。
山奥に3日間掛けて、飛行機からの機関銃んお弾から逃れながら疎開しました。
疎開中は学校もなく楽しかった。食べ物を探して山を駆けずり回り、スモモ、梅,柿、グイミ、栗、山芋やアユ、ヤマメ等を穫って食事をした。
やがて疎開先から、高知市の借家に戻り小学校4年生の中頃から、元の生活が始まった。校舎は杉皮の屋根で晴れた時は光が屋根から差し込み、雨の日は、一部傘をさして勉強をした記憶が有ります。
中学校では校舎も立派で、日本も終戦から立ち直りつつあったように思います。
高校ではアルバイトをしながら、、無気力な学生生活で、ピリから何番かで卒業をした。その年は就職難で、アルバイトをしながら1年が過ぎた。アルバイトは
アイスクリームが初めて販売されるようになり、店には大きな魔法瓶があり、アイスクリームを詰め込んでその上にドライアイスを乗せて、溶けるのを防いでいた。懐かしく思い出されます。
そして高知市内の大きな製造会社に就職が決まった。父親の友達が会社の重役であったための入社であった。私の実力ではなかった。
勤務中は、いろいろな事に悩まされ38年間苦労の連続であった。
入社して2年目に化学分析課に配属されて、知識の無さを痛感させられました。
これではダメだと思い、夜間の工業高校化学科に編入試験を受けて、3年間の仕事と勉強が始まった。今までに比べて猛烈な勉強に没頭した。
夜間の学校を無事に卒業して、勤務先も製造関係に配属され、、本気で仕事に打ち込みました。
研究開発しながら科学の知恵で、新商品を作り販売んい協力して、頭の休まる時がない勤務状況であった。特許も10件余り取り、地場産大賞も取り、利益率第一位の商品も生み出し会社の戦力になったつもりですが、依願退職者の募集が有り38年間勤めて退職しました。サラリーマンの値打ちは運が決まるものですかね!!
初めての投稿で不備一杯
御免なさい・・・次回はもっと上手に・・・と思ってます!!!